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初めまして

米田真希子です

「同じ魂が一生の中で輪廻転生していくイメージが浮かびます」

 

最近、とても尊敬する映像作家の方にこう言われました。

思えば様々な経験をしてきたような気がします。

まだまだその道は続いていますが

私の50年の軌跡です。

 

幼少期〜退職

「クラシックのピアニストになる!」と4歳からピアノ命で、熱があっても修学旅行中もピアノの練習をする子供でした。東京芸術大学附属大学に行くために、ワンレッスン何万もするようなプロのピアニストにレッスンを受けたり、コンクールを受けたり、受験専門の先生についたりしました。今思えば、母の思いを実現しよう!と頑張る典型的な娘だったと思います。

高2の時にこれで満足する結果が出なければピアノはやめようとコンクールを受験。結果は一次予選通過だけでした。

「音色は天性の素晴らしいものがある」

コンクールを受けるたびに審査委員の先生方に言っていただいたこの言葉は今でも私の宝です。

しかし高2のコンクールを機にピアノはきっぱりやめ、その頃とても興味があった国際関係を学ぶべく筑波大学、そして名古屋大学大学院へ入学。特にインドの非政府組織による初等教育の研究をしました。その間に2度ほど単身でインドの砂漠で活動するNGOに滞在したり、インドネシアのNGOの活動を視察しに行ったのは貴重な経験です。大学院時代にその後の私の人生を決めるブラジルとの出会い、サンバダンサーとしての出発がありました

学生時代、国際教育の勉強をすればする程「日本に向けて何かしたい」という気持ちが強くなり、某外資系会社に入社、人事を担当させていただきました。人事で社員教育を担当させて頂いた後、品質保証、宣伝部と計6年間働き退職。

退職に関しては周りは猛反対でした。

実は会社と並行して、音楽プロデューサー、ウエディングプロデューサー、サンバダンサーなど本気でやっていたのですが、ずっと「私の人生のミッションは何だろう?」「私を一番社会に活かせて、私もハッピーな事って何だろう?」を考え続け、試し続けていました。

移住〜突然のミュージシャン転身

退職後は日本を離れ、NY、キューバ、ブラジルに行くことにしました。

NYは世界の縮図。世界すべてを回らなくてもここには世界の全てがあるはず!と思い、NYで「やりたい!」と感じた事を全て試しました。

キューバ滞在の目的は社会主義体験、パーカッション、ダンス。NYでキューバに行く数日前、「全く知り合いがいない土地へ行く」ということにはたと気づき、宿泊先を探したことを覚えています。でも、その時に「私は人間の社会に行くんだ。牛や馬の社会ではなく、同じ人間なのだから言葉がダメでもきっと通じる」と思い、滞在先の人にダンスや音楽などを教えてくれる人を訪ねたり、外を歩いていて音が聞こえた方角を訪ねていったり。そんな風にしながら、現地の人たちを知っていき、ダンスも音楽も学ぶことができました。キューバ滞在の目的の一つは「プロのサンバダンサーになる為のダンス修行」でしたが、キューバの国立舞踊団でダンスを学んだお陰で生粋のプロダンサーたちのレベルを肌で知り、私はプロでは全く無理!と激しく納得。「プロのサンバダンサー」の夢はキューバで断念。ルンバの発祥の地を訪ねて行った時彼らのリズムの1が全く理解できなかったことや、プロダンサー達のカラダの細胞の使い方(どう見ても同じ肉体だとは思えない全体がウネル様なカラダの動き)の違いを目の当たりできた事、ミュージシャン達の真からピュアな音楽を聴けた事は大きな経験でした。

毎日ラジオからサルサを聞くのに疲れた私は、予定より少し早めにブラジルへ。ブラジルはサンバダンスを極める為に行く予定だったのですが、キューバでプロダンサーは断念済み。。。

さてどうしたものか。。とふらっと考えていたある日「本当はミュージシャンになりたかったんだ」という思いが浮かんできました。私の心の中で一番憧れていたのがミュージシャンだったけど、30歳過ぎて今更やりたいなんて恥ずかしい、、、と思っていた自分に気がつき、何のあても無かったけれど、「人生一回しかない。やろう!」と腹をくくり、音楽学校などを探し、とあるサンパウロの有名音楽学校に入学し猛勉強を始めました。しかし、時期的にカーニバルが到来。母も日本から来た為、一旦勉強終了(演奏させてもらえないなどの問題もあった為、そのまま学校は中退)。

母と訪れたブラジル北東部の街レシフェ。この街は音楽的にも独特だということで遊びに行ったのですが、そこでたまたま宿泊したホテルにブラジル音楽界のレジェンド「アルセウ・ヴァレンサ」(日本でいう所の桑田佳祐?とにかく大御所です)と出会い、それがきっかけで、その後、その街でブラジル音楽を学ぶことにしました。そのために日本に戻りビザを再度取得し(学生ビザ)、再度ブラジル、レシフェに行き、1年半音楽と言語を独学しました。

30歳を過ぎて「ミュージシャンになるから」という私に対し、周りは前にも増して猛反対というより、もはや呆れていました。当然ですね。

渡伯後まず必要だったのはもちろん言語。。必死で毎日ドラマを見ては言葉を学びました。音楽のレッスンもすべて録音し勉強しました。なんとか結果を出すんだ!とひたすら勉強の毎日でした。そして、言語がわからない以上に大変だったのは文化の違いでした。それまで海外にいた事はありましたが、腰を据えて生活するのは初めて。純粋な日本文化だけしかなかった私はブラジル人の考え方、行動が全くわからず、ブラジルも彼らも大っ嫌いにすらなったことを覚えています(笑)。そんな思いをしたのに、5年後に再びブラジルへ行くんですよね。。不思議な国です。

帰国〜再びブラジルへ

1年半の滞在後、日本へ帰国しました。ご縁あり週6日、某6つ星ホテルのラウンジでの演奏(しかもブラジル音楽)、NHKやモーションブルー横浜、5つ星ホテルでの演奏など、非常に恵まれた音楽環境だったのですが、たった1年半、しかも言葉がわからない状態での音楽独学で、突然のプロとしての仕事。そのプレッシャーと毎回戦っていたので、いつも演奏するのが恐ろしかった気がします。「自分は下手だ」「もっと正しく演奏しなければ!」「早く周りに認めてもらいたい」と常に思っていたから、人並みの(誰でもが正しいと言ってくれる)スケールをひたすら覚えて、間違えずに弾く事だけを考えていた気がします。そんな状態の私でしたから、自分らしさを出す、感情を入れて演奏するなんて、恥ずかしくてできず、いつも気持ちを押し殺して音楽を演奏していました。演奏は楽しいはずなのに、自分に自信がなくて、他人が正しいと言うことをなんとかこなして、でも、それを弾いたところで自分は楽しくなく、どうして良いのかわからず、ビクビクしながら、いつも辛かったです。

そんな中カリフォルニアで行われているCalifornia Brazil Campに参加。ブラジルのトップミュージシャンたちが教えに来ていて、夢のような時間でした。音楽を演奏しながら私自身が自分らしく解放できて嬉しく感じられたのは初めてで、その私を評価してくれる人たちもいました。同じ事をしても日本では「だめ」と言われ、カリフォルニアでは「素敵だ!」と言われたことに疑問も感じ始めた頃でした。そんな経験を経て、「ブラジル音楽という山を見てしまったからには、登れる所まで登ろう!」「ブラジル音楽の本場で全てを肌で感じよう!」と心に決め、さらなる音楽的向上を目指してブラジルへの単身渡伯を決意しました。

プロミュージシャンとして2度目の単身渡伯

〜ブラジル活動時代〜

【音楽的転換期:成功と挫折】

今度の拠点は大都市サンパウロ。渡伯前に知り合いのブラジルミュージシャンの多くに「(音楽の仕事をするには)どこがオススメの場所?」と尋ねたところ、100%「サンパウロ」という答え。レシフェには知り合いもいましたが、そういう理由で一人サンパウロへ行きました。頼れる友人は居なかったのでホステルからの生活がスタート。縁があり音楽学校でピアノを教え始めたり、友人の紹介でその後恩師となるシルビア女史に出会えたことで、徐々に私のブラジルに来た目的や音楽に対する価値観が180度転換していきました。

シルビアはいつもこう言っていました。

「私が教えることは、真希子の中の余計な事を取り除くこと!」

「あなたの中に既に音楽はあるのよ。貴方は十分知っている事を分かって!」

彼女は心から表現できる音楽を作り、演奏する為の後押しを全力でしてくれました。そのお陰で、今まで考えたこともない「作曲」を始めたり、私自身のトリオ結成、ライブ活動開始など、本場のブラジルで一人のミュージシャンとして全く想像もしない道を歩き始めていきました。

それでも、最初の2年間はブラジル人たちにどう思われるのかが怖く、自分に自信がなく、どう思われるかが気になって仕方なくて、ひたすら家だけで練習を続ける日々。でも、「このままでは人前で演奏する前に死んでしまう」と、鍵盤ハーモニカを手に外へ行き始め、演奏するようになっていきました。その後は「止まらなくなった音楽おもちゃ」と言われる位、様々なライブの飛び入りさせてもらったり、知らない人とでもその場で一緒に演奏して人脈を広げ、経験を積んでいきました。昼から次の日の朝まで6箇所くらい「飛び入りのハシゴ」をすることもありました。多くの人と一緒に演奏する機会が増える中で、仕事を頂けるようになり、ショーロ(ブラジル音楽のジャンルの一つ)奏者としてサンパウロを代表する活動をさせてもらったり、参加したグループのCDがブラジルで発売されたインストゥルメンタルCDの「ベスト10」に入ったりしていきました。ブラジル滞在10年で参加した音楽プロジェクトは100近くかそれ以上だったと思います。何処に行っても音楽を創っていく刺激的な仲間たちが居た事は本当に感謝としか言いようがありません。

2017年。6回のトリオメンバー変更、CD製作途中の詐欺を経て、7年越しにオリジナルCD「ブラジレイリズモ」を完成。ブラジルではオリジナルを発表する事がミュージシャンとして認められる一歩。このCDは2017年にブラジルで製作された全てのCDのベスト50入りを果たし、一気に私の知名度をあげました。CDリリースライブをブラジル最高峰の舞台(Sesc instrumental)で行うなど今までの音楽人生絶頂期が到来しました。ブラジルのこの舞台で全てオリジナル曲でのリーダーライブをした人は日本人で初めてで、今も現れていないと思います。

でも、同時に、長年抱えていた右手の腱鞘炎の所為で、一音弾くのも辛くなりドクターストップがかかったり、私生活や仕事上でのトラブルなども多数発生していました。仕事が出来ないことは当時の私としては想像もつかないことで、ドクターストップのことは誰にも言えず、絶望的な毎日でした。そんな時に出会ったのが「アレクサンダーテクニック」。これを機に体だけでなく、メンタルに関しても見直したい!と思い禅、マインドフルネス、NLP、ヨガなども漁るように勉強しました。

アレクサンダーテクニックとの出会い

〜トルコへの移住へ〜

【苦悩そして新しい展開】

自分自身を見直していく過程で、たくさんの発見がありました。いつも「何かが足りない」という思いで生活していたこと。他人に認められるために自分を追い込んでいっていたこと。「私は自分の勝手で日本を離れ、愛猫も預け、両親に心配をかけているんだ。私は幸せになってはいけない」と本気で思っていたことなど。

「自分はこれだけ出来てる!ってアピールしなきゃ!」「一回ブラジルの音楽業界から認められたのだもの。次はもっと良いものを作らなきゃ!」という「予期する事なく突然ブラジルで評価されたプレッシャーに押しつぶされそうだった自分」などに気づいていきました。

ブラジル音楽は心の底から、体の芯から好きだし、本当に楽しかったけれども、不健康なマインドで無理をしすぎていたのだと思います。

でも、それらに気づいたからといって、すんなり自分の弱さを認められたわけではありませんでした。アレクサンダーテクニックに出会ってから数ヶ月経った時に「教師養成2年コース」が開始される事を知りましたが、「これを始めたら自分はプロとして負ける。痛みで苦しんでいて、音楽以外のことをやるプロミュージシャンなんて、私は認めない!」みたいなプライドが強くて、そのコースに入るかどうか、最後まで悩み続けました。。。

「痛くて弾きたくない」のか、「もうピアノなんて嫌だ」と感じて、弾きたいと思わないのかもよくわからず、「弾かなきゃいけないけど、痛いし」「前のような情熱が感じられない、どうしよう、、」そんな風に感じる日が続きました。プロとして新しい作品や演奏映像をファンに届けられない自分が情けなかったり、同僚たちが輝いているのが羨ましかったり、そんな風に感じてる自分を責めたりしていました。辛かったです。。

でも、アレクサンダーテクニックを続ける事で、次第にそんな自分に沸き起こってくる感情をどう捉えたらいいか、たまに痛くなってくる体についてどう扱ってあげたらいいのか、理解できるようになっていきました。

特にコロナが始まってからは、気分がものすごく左右される時期もあり、そんな時の自分の守り方も知りました。また、自分の気持ちに正直に生きることができ始め、それまで人生に唯一存在していた「ブラジル音楽とブラジル音楽のための生活」も変わっていって、旅行をしたり、友人とご飯を食べたりという時間も不安なく作れるようになっていきました。嘘のように思われるかも知れませんが、それまでは全てが音楽だけの人生だったので、土日も練習、どこか行く時も音楽関係。だから、旅行もしなかったし、練習しない、音楽のない時間を過ごすなんて、怖くて全く考えられませんでした。そう、止まるのが怖かったんです。

2020年2月末、コロナが始まった頃にイスタンブール経由でインドのヨガフェスに参加するためにインドに到着したのですが、インド国内には入れてもらえなかった為、再度インド以外でビザを取って入国を試みなければなりませんでした。イスタンブールへ戻り、10日ほどインドへの入国のためのビザ取得と同時に起こった様々な問題などをなんとかしようと試みましたが、何も解決せずにブラジルへ帰国。毎日何でこんなに問題が起こるんだろう!?というほど大変な10日でしたが、その時に出会った彼とブラジル帰国後5ヶ月遠距離恋愛をし、同8月に新しい人生を始めるためにトルコへ愛ネコと移住してきました。今までの人生で一番大変な移住でした。

猫と3つのスーツケースと1つキーボードだけでトルコに来ました。今まであったスタジオも、ピアノも、友人も、音楽仲間もいない。言葉も通じない。しかもコロナで動けない。。「いったい自分は何がしたいの?何ができるの?」ネガティブケイパビリティ全開でひたすら自分と向き合う時間、そして、パートナーとの同居生活。新しいことをたくさん学ばせてもらい、現在も学んでいます。

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今思えば、もし、私がアレクサンダーテクニックをしていなかったら、ブラジルから出ることはなかったと思います。その前に、今の様にピアノをもう一度弾けることもなかったはずですが。。

アレクサンダーテクニックで自分の気持ちと時間をかけて理解し、「私がしたいことは何か?」を誰かのためではなく、私のためにしっかりと考えられたことが、私にブラジルから離れて、新しいことも始められる勇気を与えてくれたと思っています。

ブラジルは今でも大好きな場所です。ブラジル音楽もやっぱり世界で一番好きです。

でも、もしかしたら私はブラジルに依存して自分の存在を確認していたのかもしれません。

不幸せな私が掴んでいなければならない何かではなく、私の中で前よりもバランスよく、愛おしく存在しています。

そして今、私にたくさんのことを教えてくれて、助けてくれたアレクサンダーテクニックを他の人に伝えることで、一人で悩んだり、うまくいかないことに悶々したり、悩んだり、カラダに感じる痛みを「当たり前」って諦めて演奏していたり、もっと音楽を楽しく演奏したいな、自分らしく表現したいなと思っているけどその手段にまだ出会えていない音楽愛好家や、痛みに困っているけど休めなかったり、痛み回復後のメンタルケアなどを通してプロミュージシャンのサポートをしていきたいし、音楽とは関係なくても、息苦しいな、、もっと自分らしく生きたいな!と感じている人たちの応援をしていきたいです。

私自身の変化に私が置いていかれる時もありますが、感謝の気持ちを忘れず、学び続けていきたいと思っています。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2022年6月8日

米田真希子

グミベア

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